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東京地方裁判所 昭和54年(ワ)7124号 判決

原告 都村春子

右訴訟代理人弁護士 重富義男

同 古山昭三郎

同 森田健二

同 木村孝

右訴訟復代理人弁護士 金子正嗣

被告 川口洋二

右訴訟代理人弁護士 坂本昭治

同 塩谷国昭

同 岡村信一

主文

一  被告は原告に対し、金一〇五万円及びこれに対する昭和五四年八月一七日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを六分し、その五を原告の負担とし、その余は被告の負担とする。

四  この判決の第一項は、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、六〇〇万円及びこれに対する昭和五四年八月一七日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1(診療契約) 原告は、開業歯科医師である被告に対し、昭和五〇年一〇月二四日から昭和五一年三月二日の間に、原告の歯牙等のうち、欠損している右上第一、第二大臼歯(歯牙の名称については別紙歯列図による。)の補綴、損傷又は老朽化した既存の架工義歯の補修ないし取替及び歯根炎その他歯牙等の疾患の診療を委任した。

2(治療行為) 被告は、右期間中、原告に対し、前記受任に基づき、イ 右上第三大臼歯ないし右上第二小臼歯間の架工義歯(以下「本件イの架工義歯」という。)を製作のうえ装着、ロ 右下第三大臼歯ないし右下第一小臼歯間の既存の架工義歯を除去した後、右下第三大臼歯ないし右下側切歯間の架工義歯(以下「本件ロの架工義歯」という。)を製作のうえ装着、ハ 右上中切歯ないし左上第一小臼歯間の既存の架工義歯を除去した後、右上第一小臼歯ないし左上第二大臼歯間の架工義歯(以下「本件ハの架工義歯」という。)を製作のうえ装着、ニ 本件ロの架工義歯を除去した後、同部分の架工義歯を新しく製作し直した(以下「本件ニの架工義歯」という。)うえ装着との各治療行為(以下「本件治療行為」という。)をなしたが、その架工義歯の製作にあたって、(1) 本件イ、ニの各架工義歯のスピーカーブ(側面から歯列を見た場合における湾曲度)を強く、かつ、右上第三大臼歯、右下第二、第三大臼歯を高く設定し、(2) 本件ハの架工義歯のオーバーバイト(咬合の深度)及びオーバージェット(咬合の緊密度)を強く設定し、(3) 各架工義歯の臼歯部の咬頭を平坦に、かつ、被蓋(上下歯のくいちがい)を小さく設定し、(4) 本件イの架工義歯の臼歯内側根部に切れ込みを設定し、(5) 本件ニの架工義歯の歯列を直線的に設定した。

3(原告の症状等) 原告は、本件ロの架工義歯が装着された昭和五〇年一二月ころから、下顎の運動障害、咬合不全、舌部の圧迫感、仰臥位における呼吸困難感などの自覚症状を覚え、また舌縁部及び内頬部をかみやすくなってこれらの部位に多数の咬傷を生ずるようになり、昭和五一年三月ころからこれらの症状は顕著になり、ついには咀嚼筋群及び顎関節に疼痛を感じ、咬傷の発生、舌部の圧迫感、呼吸困難感が進み、口腔内全体に慢性的炎症が発生して、口渇感を覚え、口腔内に出血が絶えず、口腔内粘膜が広範囲にわたって剥離する状態となり、これら症状に伴って、精神が不安定となり、不眠症に悩むようになった。

4(本件治療行為と症状等の因果関係) 原告に発生した右症状等は、被告による本件治療行為に起因する。すなわち、被告が前記2の(1)、(2)各記載の形状に製作した架工義歯を装着した結果、下顎運動の障害及び咬合位置の偏位によって咬合不全となり、これによって咀嚼機能に異常を招来し、咀嚼筋群及び顎関節に疼痛を生じ、また、前記2の(3)ないし(5)各記載の形状に製作した架工義歯を装着した結果、舌縁部及び内頬部をかみやすくなり、ひいてこれらの部位に慢性的に咬傷を生ずるようになり、この咬傷部位や臼歯内側根部の切れ込み部分の鋭利な端末に舌が接触することによって、口腔内粘膜を継続的に刺激して口腔内の慢性的炎症を生ぜしめ、さらに、装着架工義歯の前記形状のため、舌房が狭小となり、舌部に圧迫感を余儀なくされた結果、舌の位置が奥へ後退することになって呼吸困難感を覚えるに至り、以上の慢性的な肉体的苦痛によって精神が不安定な状態に陥いり、不眠症を招来したものである。

5(被告の過失)

(一)(架工義歯製作・装着上の過失) 架工義歯を製作・装着する場合、その形状がその患者特有の咬合状態、口腔の形態等に適合しないときは、前記3記載のような咬合不全による咀嚼系機能障害及び口腔内の咬傷、これらに起因する慢性的炎症等の傷害を惹起するおそれがあるのであるから、開業歯科医としてはこのことを予見して右傷害の発生を防止すべく、従前の歯牙、義歯及び口腔の性状、並びに咬合の状況及び態様等を精査考慮し、以上については患者の主訴等をも十分斟酌したうえ、相当な方法をもって、その患者に適合し、正常域内の恒常的な下顎運動等を妨げないような適切な形状の架工義歯を製作して装着すべき業務上の注意義務があるのに、被告は、これを怠り、(1) 本件ロ、ニの各架工義歯の製作にあたって、スピーカーブを強く設定しすぎ、かつ、右上第三大臼歯、右上第二、第三大臼歯の高さを高く設定しすぎるときは、これらの装着によって架工義歯が下顎の運動に干渉して障害を惹起する結果、咀嚼機能に異常を招来することは明らかであるのに、スピーカーブを著しく強く設定し、右上第三大臼歯、右下第二、第三大臼歯を著しく高く設定した本件ロ、ニの各架工義歯を製作・装着し、(2) 本件ハの架工義歯の製作にあたって、前歯部のオーバーバイト及びオーバージェットを強く設定しすぎるときは、これが下顎運動に障害を惹起する結果、咀嚼機能に異常を招来することは明らかであるのに、オーバーバイトを著しく深く、オーバージェットを著しく緊密にそれぞれ設定した本件ハの架工義歯を製作・装着し、(3) 本件各架工義歯の製作にあたって、臼歯部の咬頭を平坦に、上下歯の被蓋を小さく、そして、歯列を直線的に設定するときは、舌部を圧迫し、咬傷を生じやすい状態になり、臼歯内側根部の切れ込みを鋭利に設定するときは、該局所に舌がひっかかりやすい状態になり、ひいてはこれらを放置するときは、口腔内に慢性的炎症が発生するおそれがあることは明らかであるのに、本件各架工義歯の臼歯部の咬頭を平坦に、上下歯の被蓋を著しく小さく、本件ニの架工義歯の歯列を直線的に、本件ロの架工義歯の臼歯内側根部切れ込みを著しく鋭利にそれぞれ設定した本件各加工義歯を製作・装着した。

(二)(架工義歯装着後の過失) 一般に開業歯科医としては、架工義歯をいったん装着した後も、その装着状態、咬合状態並びに口腔内における舌部の動静及び下顎運動への影響の有無等について患者の主訴等をも十分斟酌のうえ診察の結果、不適合な点があったときは、調整、補修等改善のための措置を講じるべき診察上及び業務上の注意義務があるのに、被告は、これを怠り、本件イ、ロの各架工義歯装着の昭和五〇年一二月ころから、原告において咬合不全、舌部の圧迫感、内頬部等をかみやすいこと等の自覚症状を訴えたのにもかかわらず、これらを治療上全く斟酌することなく、その原因を探究することもなく、何ら改善のための措置を講じないで放置したうえ、被告は、昭和五一年三月二日に至り、原告への治療を拒絶したため、原告に発生した前記症状は原因の除去、適切な対症療法をも受けることなく、増悪し、前記3記載の程度にまで拡大した。

6(原告の損害) 前記3記載の症状等によって次の損害を蒙った。

(一)  休業(家事労働)損害 一〇〇万円

原告は、主婦(夫はもと外交官である)であるところ、昭和五一年三月以降現在に至るまで前記症状等に起因する肉体的、精神的苦痛によって、家事労働に従事することが不可能となった。

(二)  後遺症による逸失利益及び慰謝例 三〇〇万円

前記3記載傷害は、いわゆる症状固定し、現に、下顎運動障害のほか咀嚼筋群及び顎関節の疼痛など咀嚼機能の障害及び発音不明療等の発音機能障害を遺し、これらの後遺症は将来も治療による改善効果は期待し得ない。

(三)  慰謝料 二〇〇万円

原告は、前記症状等加療のため昭和五一年二月以降三年五か月の長期にわたって頻回通院し、この間前記3記載のとおり、各局所における痛苦、口腔全域の慢性炎症のほか持続的圧迫感、ときに呼吸困難感を余儀なくされ、また精神的不安定、不眠症に悩まされる等多大の精神的、肉体的苦痛を蒙った。

7 よって、原告は、被告に対し、主位的には債務不履行に基づき、予備的には不法行為に基づき、損害賠償金六〇〇万円及びこれに対する各行為の日の後であり、訴状送達の日の翌日である昭和五四年八月一七日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2を認める。

2  同3は知らない。同4は否認する。

3  同5の(一)のうち、被告が本件イないしニの各架工義歯を製作したことは認めるが、原告主張の業務上の注意義務及び被告の過失の各存在は争う。

同(二)のうち、架工義歯装着後、原告がその主張のような自覚症状を訴えたこと、被告がこれを治療上斟酌しなかったこと及び昭和五一年三月二日、被告が原告に対する治療を拒絶したことを否認し、過失の存在を争う。

4  同6を争う。

三  被告の主張

1  咀嚼筋群及び顎関節の疼痛等の症状を含む咀嚼系機能障害の原因については定説がなく、咬合位置の偏位を原因とする説のほかに、筋障害説、精神生理学的因子説及び精神病理学的因子説などが対立する。これら諸説によれば、咀嚼系機能障害は咬合位置の偏位等とは無関係に発生する。本件の場合、原告は本件治療行為前から咬合不全の状態にあること及び原告は異常に神経質であることなどから原告主張の本件症状等は、本件治療行為とは無関係に他の原因によって発生したものである。また、原告の口腔内の炎症は、従来罹患していた糖尿病又は高血圧に起因するものである。

2  一般に開業歯科医師としては、架工義歯の製作・装着等の治療行為にあたっては、従前の歯牙、義歯の形状及び咬合状態に異常が認められなければ、これらの形状等を参考にして、開業歯科医師が行う通常の方法で架工義歯を製作して装着したうえ、装着後の咬合状態等を検認し、調整すれば足りると解すべきであって、被告は、本件治療行為に際し、右一般開業歯科医師が治療上行うべき義務を次のとおり履践した。すなわち、本件ロ、ニの各架工義歯の製作にあたり、反対側である左上下歯の歯列を再現し、そのスピーカーブを左側のものと比較してやや弱く設定し、本件ハの架工義歯の製作にあたり、オーバーバイトに関しては従前どおりに、オーバージェットに関しては原告の希望と審美的見地からやや緊密にそれぞれ設定し、本件ニの架工義歯の臼歯内側根部の切れ込みに関しては、義歯の自浄作用を高めるため、開業歯科医師が通常行う範囲で設定し、本件ロの架工義歯の歯列に関しては、架工義歯の強度保持のため直線的に設定するのが通常であり、その範囲内で設定し、各架工義歯の臼歯部の咬頭及び被蓋の形状については従前の歯牙及び義歯の形状をそのまま再現し、これらの架工義歯を装着したうえ事後の調整を期していた。

ところが原告は、治療途中であった昭和五一年三月二日を最後に何の予告もなく被告方への通院を廃し、自ら右事後調整の機会をも失わしめた。

また、原告は、被告による治療を無断で放棄した後、昭和五二年一一月一六日、東京歯科大学病院において診療を受けるまでの間、何ら歯科治療を受けないで、これにより症状の増悪を放置し、その症状等ないし損害の拡大を自招した。

四  被告の主張に対する反論

原告において、昭和五一年三月二日を最後に被告方に通院せず、昭和五二年一一月一六日、東京歯科大学病院で診療を受けるまでの間歯科治療を受けていないことは認めるが、被告方への通院を廃したのは、却って被告による治療拒絶及び原告の主訴を無視するその治療態度によって余儀なくせしめられたものであり、またその後歯科治療を受けない期間があったのは、本件傷害による苦痛のため外出意欲を喪失したからである、そもそも被告が製作・装着した本件各架工義歯の欠陥は、いわゆる事後調整によって改善される程度のものではなかった。

第三証拠《省略》

理由

第一責任原因関係

一  請求原因1(診療契約)、2(治療行為)の事実は、当事者間に争いがない。

二  まず、本件治療行為の経過についてみるのに、《証拠省略》によると、昭和五〇年一〇月二四日の初診後である同月二八日、被告は右下第三大臼歯ないし右下第一小臼歯間の従前の架工義歯を除去し、同年一一月一〇日、本件イの架工義歯の印象を得、同月二九日、右部分に仮義歯を装着し、その間、本件イの架工義歯を製作し、同年一二月三日、右架工義歯を装着したこと、同月六日、本件ロの架工義歯の印象を得て、該架工義歯を製作のうえ、同月二三日、装着し、同月二六日、同架工義歯の調整をしたこと、その間である昭和五〇年一一月五日、右上中切歯ないし左上第一小臼歯間の従前の架工義歯を除去し、右上第一小臼歯ないし左上第二小臼歯間に仮義歯を装着し、同年一二月六日、同部分の仮義歯を再製作のうえ装着し、同月二六日、再度同部分の仮義歯を製作のうえ装着し、昭和五一年一月八日、本件ハの架工義歯の印象を得、同月一四日、前記部分の仮義歯を再度製作し直したうえ装着し、同年二月一六日、本件ハの架工義歯を製作のうえ装着したこと、同月一九日、前記本件イの架工義歯を除去し、あわせて本件ニの架工義歯の印象を得たうえ同部分に仮義歯を装着し、その後本件ニの架工義歯を製作して、同年三月二日、これを装着したことが認められ(る。)《証拠判断省略》

三  次に、原告の症状等(請求原因3)について判断する。

《証拠省略》によると、原告は、本件イ、ロの各架工義歯を装着した昭和五〇年一二月ころから、下顎運動の障害、咬合不全、舌部の圧迫感及び仰臥位における呼吸困難感を自覚し、かつ、舌部及び内頬部をしばしばかんでこれらの部位に咬傷を生じるようになり、昭和五一年夏ころから、顎関節の動きに伴う雑音の発生を余儀なくされ、咀嚼筋群及び顎関節に疼痛を覚え、口腔内に出血が生じ、粘膜が剥離し、口腔内の舌部、内頬部及びその周辺に慢性的炎症が生じたこと、なお、原告は、以上の症状等についてはこれを自覚する都度、その咬合状態についても被告に訴えたことが認められる。《証拠判断省略》

四  そこで、右認定の症状等と本件治療行為との因果関係について検討する。

当事者間に争いのない前記本件治療行為の内容並びに前認定の治療の経過及び原告の症状等がいずれも本件治療行為後、これに近接した時期に発生しているとの事実に《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

1  一般に、歯列のスピーカーブ(湾曲度)が強すぎ、前上下歯のオーバーバイト(咬合の緊密度)が緊密にすぎることは、いずれも下顎運動障害の原因となり、また下顎運動の障害及び咬合位置の物理的偏位は、咀嚼筋群及び顎関節の疼痛等の咀嚼系機能障害の有力な原因と解されているところ、本件治療行為前には、咬合状態に格別異常がなかった原告が本件治療後には右上第三大臼歯と右下第三大臼歯とが、下顎運動時に接触し運動に干渉して障害を来たし、またその咬合位置に前後方向の偏位を生じ、これらによって咀嚼筋群及び顎関節の疼痛、咬合不全等の咀嚼系機能障害を惹起したものであって、該障害等は、被告による本件治療行為に起因すること、

2  さらに一般に、臼歯部の被蓋は、頬を外側に押し広げ、舌をその内側に押し込むとの機能をなすところから、被蓋の過少は内頬部及び舌部をかみやすいとの事態を招き、臼歯咬頭の平担も右各部位をかむ原因となり、また直線的歯列は、舌房の狭小に通じ、舌部の咬噛、舌圧迫をきたし、さらに、臼歯内側根部の切れ込みをきつく設定すると、その端末の鋭利な部分が舌と接触して舌の粘膜を損傷しやすく、なお口腔内粘膜の慢性的炎症は、該粘膜への物理的刺激の継続によって発生するものとされるところ、被告による本件治療行為に起因して原告の舌部及び内頬部に多数の咬傷を生じ、右咬傷及び臼歯内側根部の切れ込み部分への舌の接触による舌部及び内頬部各粘膜へ物理的刺激として継続的に作用し、これによって舌部、内頬部及びその周辺の粘膜に慢性的炎症を生じ、同時に、狭小な舌房内で、舌が前記物理的刺激を回避すべく奥方へ後退する結果、舌部が気道を閉塞して呼吸困難感を覚えるに至ったこと。

なお、右認定に付言するのに、前掲証拠によると、高血圧症、糖尿病もきわめて稀ながら口腔内炎症の原因となるところ、本件治療行為前には、原告に右症病の症状はなく、本件治療行為後である昭和五一年夏ころ、糖尿病の症状をみ、昭和五二年三月一九日、高血圧症のそれを観察したものの、いずれも軽微であって、その他局所及び全身状態に異常がなかったことが明らかであるから、結局、右後発の糖尿病、高血圧症の各存在事実は、原告の症状等が被告のなした本件治療行為によるとの前示認定を左右するに足りず、また、原告が昭和五〇年九月一七日、島田信吾医師の慢性喉頭炎との診断により同年一〇月五日までの間合計四日間通院加療したとの事実(この事実は、《証拠省略》によって肯認し得、原告本人尋問の結果のうち、この認定に反する部分は措信しない。)があるものの、右のとおり短期間の軽微症状にすぎないうえに、前示認定の原告の口腔内炎症とはその発生部位を異にするから、右事実も、前示認定を覆すに足りない。

五  進んで、被告の過失の有無について判断する。

1  架工義歯製作・装着上の過失について

およそ歯科医師たる者は、患者の依頼に応じて架工義歯を製作・装着するにあたっては、架工義歯の形状が、歯形、歯列、口蓋、頬部、顔貌の組成、印象についてはもとより、咬合状態からの咀嚼機能、舌部、内頬部等の口腔内の状態からの発音、発語機能等についても重大な影響を及ぼすもので、その形状が患者に適合しないときは、咬合不全による咀嚼系機能障害、舌部及び内頬部における咬傷、ひいてはこれらに起因する慢性的炎症等の傷害を惹起するものであるから、これらの障害及び傷害を防避すべき診療上及び業務上の注意義務を負担するものというべきである。またしかしながら、咬合状態は、その余の歯牙、歯列及び顎部等の構造並びに患者個人の嗜癖とも相関し、架工義歯の咬合状態等に及ぼす影響は、きわめて個性的、かつ、微妙であるうえに、装置後の使用によって、他の歯牙、舌部等の性状に順応し、またはこれらを順応せしめ、もって適当な口腔状態を形成、保持することを期待しうるものであることも明らかであるから、開業歯科医師としては、患者の従前の歯牙・義歯の形状及び咬合状態に格別異常を認めない限り、その形状と状態を参考として、開業歯科医師の有する通常の設備、歯科医学的技量をもって、通常の方法に従って架工義歯を製作・装着すれば、一応前記注意義務を尽したものというべきである。

右見地から本件をみるのに、前記認定のとおり、本件治療行為前、原告には咬合状態について格別異常が認められなかったため、《証拠省略》によると、被告は、(1)本件ロ、ニの架工義歯の製作・装着にあたって、従前の左下歯架工義歯の歯列を参考にしたが、該参考義歯のスピーカーブも強く設定されていたこと、(2)本件ハの架工義歯のオーバーバイト及びオーバージェットの設定にあたって、同部位の従前の架工義歯のそれらを参考にしたが、オーバーバイトについては従前と同様に設定し、オーバージェットに関しては原告の希望と審美的見地とからやや強く設定したにすぎないこと、(3)本件各架工義歯の臼歯部咬頭の平坦及び被蓋の寡小はいずれも従前どおりに再現したにすぎないこと、(4)本件ロの架工義歯の臼歯内側根部に切れ込みを施し、また本件ニの架工義歯の歯列を直線的に設定したものの、前者は架工義歯の自浄作用を高めるためであり、後者はその強度保持のためであって、いずれも開業歯科医師が通常行う範囲内の技術程度であることが認められる(この認定を覆すに足りる証拠はない。)から、架工義歯の製作・装着につき、被告には前叙診療上及び業務上の注意義務に欠けるところはないといわざるを得ない。

2  架工義歯装着後の過失について

およそ架工義歯を製作・装着した開業歯科医師としては、架工義歯の形状が、咬合状態及び口腔内の状態ひいては咀嚼機能、発音、発語機能等についても重大な影響を及ぼすことに想到し、装着後相当の期間、安定度、固定度等の静的装着状態のほか咬合状態及び口腔内における舌部の動静、下顎運動への影響等の有無及び程度について継続的に観察し、時に機器を用いて精査し、不適合との診断に達しまたは障害、口腔内各部の損傷、炎症等を発見したときは、直ちに右架工義歯の形状を調整、補修し、右損傷、炎症等の治療をもなすべき診療上及び業務上の注意義務を負担するものであって、これらにあたって、前記1説示の咬合状態及びその影響の帯有する個人差及び微妙性に鑑み、患者に対する問診及び咬合の試行等をなすことはもちろん、その使用感、主訴をも十分に考慮することを要すると解する。

ところが、前記三認定のとおり、原告は、本件イ、ロの架工義歯を装着した昭和五〇年一二月ころから、下顎運動の障害、咬合不全、舌部の圧迫感及び仰臥位における呼吸困難感を自覚し、舌部及び内頬部をしばしばかみ、これらの部位に咬傷を生じるようになり、右症状等についてその発生の都度被告に対し訴えたことが明らかであり、また、右上下第三大臼歯が下顎の運動時に変則的に接触するため、この運動に干渉して障害を惹起するとき、開業歯科医師としては通常の診療及び平常使用の咬合器によって容易に発見しうるものであり、本件治療行為当時における一般開業歯科医師の水準によっても、咬合不全、下顎運動障害が、その名称はともかく咀嚼系統に異常をもたらす原因となることは周知の事実であった(以上の知見は、《証拠省略》によってこれを認める。)のに、《証拠省略》によると、被告は、原告の前記症状等の主訴ないし訴えについて、これらに関連する咬合状態の精査、右主訴等と他覚的所見との対比ないし客観的原因の検証、右主訴等の発生原因の探究をなさず、結局これらを治療上殆んど斟酌しなかったことが認められ、この結果、被告は原告の主訴等についての評価を誤り、右上下第三大臼歯の下顎運動への干渉の事態を見逃がしたことを初めとして、当時既に原告に発症していた咬合不全、下顎運動障害、舌部の圧迫感及び咬傷の発生等の諸症状を看過してこれらの諸症状の増悪を防止すべき措置をなさず、ひいて後発生した咀嚼筋群及び顎関節の疼痛、口腔内の慢性的炎症等の症状等を予見し得ずして、これら症状等の原因の除去及び早期治療の機会を逸し、右症状等を拡大せしめたものであって、被告には過失があるといわざるを得ない。

第二損害額関係

一  損害額算定の基礎

前記三認定の事実と《証拠省略》によると、次の事実が認められる。

1  原告は、大正二年四月二三日生れの主婦であって、昭和五一年夏ころから、咀嚼筋群及び顎関節の疼痛、口腔内の慢性的炎症による苦痛及び顎関節の雑音、舌部の圧迫感、口腔内の出血、粘膜剥離による不快感に悩み、これらの苦痛と仰臥位における息苦しさとによって不眠症に罹患し、また家事労働の意欲が減退し、殊に前傾姿勢を余儀なくされるや、著しく苦痛を訴えていたが、昭和五五年夏ころには右諸症状及び苦痛は軽快したこと

2  原告は、右症状等の治療のため、昭和五二年一一月一六日から昭和五四年六月一六日までの間、中途経過観察のための約四か月間の中断があるものの、週一回程度、合計実通院日数六八日間にわたって、東京歯科大学病院補綴科の腰原好助教授のもとで通院治療を受けたこと、

3  原告は、現在も、発音がやや不明瞭で、咀嚼筋群等の疼痛及び舌部の圧迫感等の症状はなお残遺していること。

二  休業損害

右1認定の事実及び前記第一の三認定の諸症状等の部位、程度を総合すると、原告は、昭和五一年夏ころから昭和五五年夏ころにかけて、家事労働につき意欲が減退し、少くとも具体的なある種の右労働に従事することに苦痛を訴えていたことは明らかであるが、いわゆる相当因果関係上、本件症状等によって現実的、かつ具体的にいかなる家事労働をなしえず、よって幾何の得べかりし利益を失ったかとの点についてはこれを認めるに足りる証拠がなく、この点に関し、原告の主張に沿うやのその本人尋問の結果も、抽象的あるいは漠然としていて、当裁判所の心証を惹かないから、本件にあっては独立の損害算定費目としての休業損害を肯認しえない。

三  後遺障害による逸失利益及び慰謝料

現在も原告は前記一の3認定の症状等が残遺していることは明らかであるが、右受傷部位、程度及び症状を総合考慮すると、これによる将来の逸失利益及び慰謝料をいわゆる後遺障害に基づく損害として、独立的かつ、確定的に算定するに足る程度に達しているものとは認められない。

四  慰謝料

叙上認定の本件治療行為の態様、原告の蒙った症状等の部位、程度、治療の期間、態様及び経過並びに前記二、三説示の事情を併考すると、被告のなした本件治療行為によって原告の蒙った肉体的、精神的苦痛の慰謝料としては一五〇万円とするのが相当である。

五  過失相殺

歯科診療を受けるに際しては、患者にも診療に協力すべきことを求めるのは、事物の性質上当然と解すべく、とりわけ不適合な治療をうけ、さらにこれらによる障害、病状を自覚したとき、患者において合理的な理由がないのに、一方的に受診療を廃絶し、その後においても適切な診療を受けることなく病状を放置したことにより、病状の重篤化を招き、新病状を誘発したときは、この症状等の拡大につき患者にも過失があるというべきである。これを、本件について考えてみるのに、原告は被告による本件治療行為の途中である昭和五一年三月二日を最後に通院を廃し、その後昭和五二年一一月一六日、東京歯科大学病院補綴科において診療を受けるまでの間、歯科診療を受けず、右通院廃絶につき、被告による治療拒絶、不良治療態度等の帰責事由はなく、また、右通院廃絶後東京歯科大学病院補綴科における受診療までの間につき症状等の増悪等の事実がありながら、歯科治療を受けなかったことについても合理的な理由がないから、症状等の拡大につき原告にも過失ありといわざるを得ないが、その過失の態様及び歯科医療の分野に専門的知識を有しないことを考慮して斟酌すると、前記四による算定額から三割を減額するのを相当とする。

よって、被告は原告に対し、損害賠償金一〇五万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和五四年八月一七日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を負担することが明らかであるから、本訴請求は右の限度で理由があるものとして認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 薦田茂正 裁判官 中野哲弘 根本渉)

〈以下省略〉

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